
『宮城は知らない入れ物のこと』
昇降口の前に貼ってあった名簿に宮城の名前はなかった。
正確には、私の名前があった三組に宮城の名前はなく、二組にあった。予想していたことではあったけれど、それは高校生活最後の一年を宮城とは違う教室で過ごすということで、がっかりするような出来事ではあった。
だからといって、私と宮城はクラスが違うことを愚痴るような仲ではないから、“つまらない”なんて思うのは間違っている。
私がしなければいけないのは、決まったことを静かに受け入れ、宮城に呼び出されたらいつものように彼女の家へ行き、いつものように命令に従うことだ。
「ろくでもないことしか言わないけどさ」
私はベッドに腰掛けて、自分のつま先を見る。
「足舐めろとか、変態じゃん」
その変態は今日、私を呼び出さなかった。
始業式だったからなのか、春休みの前に私にサイダーをかけるなんて凶行に及んだからなのかはわからない。彼女の行動は私の理解を超えている。それでも、三年生になって初めて彼女の家へ行く日がそう遠くない日だということはわかる。
宮城はいつも長い休みの後はすぐに私を呼ぶ。
まあ、考えることに意味なんてないけれど。
求められているのは“呼ばれたら行く”という単純で明快な行動で、深く考えることは無意味だ。
そう思っているのに、宮城のことが頭から離れない。
きっと、おそらく、私は彼女に毒されている。
本屋で宮城と出会う前の私なら宮城という人間がどのクラスになるかなんてことに感心を持つことはなかったはずで、人の足を舐めるようなこともなかった。些細なきっかけは“同じクラスの女の子”でしかなかった宮城を“同じクラスの宮城”に変え、私の放課後を変えた。
そして――。
私はチェストの上に置いてある貯金箱に視線をやる。
五百円玉でいっぱいにすると百万円が貯まるという入れ物。
それは宮城の家へ行くようになるずっと前からあるもので、宮城の家へ行くようになるまでは五百円玉しか入っていなかったものだったが、今は五千円札が交じっている。
五百円玉だけを入れ続けるつもりだったんだけどな。
私は小さく息を吐き出して、立ち上がる。
チェストの前へ行き、貯金箱をじっと見る。
この中に入る予定がなかった五千円札を何枚入れたのか覚えていないが、五百円玉の居場所でしかなかった貯金箱に突然入り込んできたそれは、五百円玉よりも大きな顔をして居座っているはずだ。
「五千円札だと二百枚で百万円か」
今までに宮城の家へ何回行ったのか。
これから先、宮城の家へ何回行くのか。
小さく息を吐き出して、五百円玉のための入れ物を指で弾く。床に座って、チェストに寄りかかる。
百万円を貯めるという確固たる想いがあったわけではない。
でも、お金を貯めたくはあった。
振り返りたくない過去を振り返る。
この部屋に貯金箱がやってきたのは、高校二年生になる前のことだ。
家族というものの輪に入れない私にとって家は疎外感とともに過ごす場所でしかなく、積極的に帰りたい場所ではなかった。帰らなくても済む方法はそれほど多くない。
高校生に実現できそうなものは県外の大学へ行き、そのまま家へ帰らずにいるくらいのもので、私はその日のために必要なものを手に入れたいと思っていた。お金はその必要なものになり得るものだったから、私はそれを入れる物が必要になり、学校の帰りに寄り道をした。
決まっていたのは貯金箱を買うこと。
でも、形状までは決まっていなかったから、目に付いた貯金箱を買ってチェストの上へ置いた。もっと可愛い貯金箱でも良かったのかもしれないけれど、それなりの大きさがある入れ物がほしかったからこの貯金箱が目に留まった。
けれど、本当に入れたかったものはお金ではなかったのだと思う。
たぶん、やり場のない想いを入れて、閉じ込めたかった。
五百円玉を一枚入れると、家族に対する不満が五百円と一緒に貯金箱の中に落ちる。気のせいでしかないかもしれないが、貯金箱に消えた五百円玉の分だけ心が軽くなった。私にできる小さな抵抗だったのだと思う。
けれど、今は五百円玉以外のものが入り、貯金箱は当初とは違う目的のものになっている。
ただ、五千円札の行き場は貯金箱以外になかったはずだ。
五百円玉と五千円札。
二つは同じ“五”のつくものだけれど、見間違えることがないものだ。貯金箱という一つの入れ物に入っていても、水と油のように交わらない。今日この貯金箱を開けても、半年後に開けても、私のものと宮城のものをすぐにわけることができる。
銀行という入れ物を選ぶこともできたけれど、出所がわからないお金を預けて親に追及されても困るし、銀行に預ければ私のものと宮城のものの区別がつかなくなる。そして、机をそれなりの金額であるお金の入れ物にするわけにもいかない。
そうなると五千円札は行き場がなく、貯金箱はそういうお金の終着点として悪くない選択肢だったと思う。
詰め込んだ憂鬱な気持ちを見ずにすむ中身が見えない入れ物は、五千円札も見えないから都合がいい。
でも、見えないことが都合の悪いことにもなっている。
なんとなく気になる。
五百円玉にこびりついた鬱屈とした気持ちなんてものは見たくなかったし、見ようと思っても見えないものだから貯金箱の中身を気にしたことはなかったけれど、五千円札は違う。形があって、貯金箱の空間を確実に埋めている。
「使うようなものじゃないけどさ」
貯金箱は開けないと決めているが、五千円の処遇は決めかねている。
はあ、とため息をついて、チェストに頭をこつんとぶつける。
「あと一年か」
あと一年経てばこの家から出られる。
そのためには学校が終わったら予備校へ行って、きっと夏休みも予備校へ行って、勉強して、大学に合格する必要がある。その間に、宮城に呼ばれ、あの部屋でも勉強をして、命令をきいて過ごし、五千円札が増え、入れ物の空間が埋まる。
それでも私たちは交わらず、貯金箱の中身も交わらない。
五千円の行く末が決まらなくても、すぐにわかれることができる。
だから、貯金箱の中身は気にしなくていい。
私は頬をぱんっと軽く叩く。
立ち上がり、テーブルに置きっぱなしにしていたスマホを見る。
昇降口の前に貼ってあった名簿のように宮城の名前はない。
当たり前だ。
「ま、そのうち連絡来るでしょ」
私は誰に言うともなく呟いた。
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