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鴉と令嬢 特別書下ろしSS
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Title:いってきます

「お兄、今日ってお仕事だったよね」

 俺――佐藤京介は最愛の妹、美桜が作ってくれたミートソーススパゲティを頬張りながら小さく頷く。
 というのも、呑気に夕食を食べているが、俺にはこの後仕事がある。アルバイトじゃない。もっと言えば、少しばかり内容もハードだ。

「俺が帰ってくるまで起きてなくていいんだからな」

「私としてはちゃんとおかえりを言いたいけどね。お兄がそう言うなら、仕方ないのでちゃんと寝ていることにします」

「そうしてくれ」

 この仕事を始めた頃、美桜は俺が帰ってくる夜中遅くまで起きていた。それが心配の裏返しなのをわかっているからこそ嬉しくもあり、少しばかり申し訳なさも感じてしまう。
 けれど、俺と美桜の二人で暮らしている以上、食い扶持は稼がなければならない。大したとりえのない俺が優秀な妹にしてやれることなんてその程度。
 美桜に苦労は掛けたくない。それが兄として残された最後のプライドってやつだ。

「アリサさんも一緒?」

「……まあ、そうらしいな」

 歯切れの悪い返事。今日の仕事は珍しく一人ではない。有栖川アリサという同い年の同僚が一緒だ。異性というだけで気が滅入る上に、俺は有栖川のことを苦手に思っている。
 有栖川グループなんて馬鹿みたいな規模の会社の令嬢相手に、一市民の俺が対等に接することができるわけがない。単純に人として苦手という話はなくもないけど。

「それにしても、アリサさんってすごいよね。生徒会の副会長で、異能も強くて、成績も優秀。しかもあんなに綺麗なんて反則だよ」

「……そうかもな」

 有栖川の顔を頭に浮かべながら苦々しげに答えた。美桜は何一つとして嘘は言っていないのだが、それを認めるには少々……いや、結構な躊躇いがある。
 俺のフィルターを通すと有栖川には理不尽とか傍若無人とかの、本人が知れば眉間にしわを寄せるであろう評価が追加されてしまう。だが、それを学校の連中は知らない。学校では完璧なイメージが定着している。
 不満があるわけではないものの、有栖川の本性は周知されるべきだとは思う。

「浮かない顔だね、お兄。アリサさんと一緒で何が不満なの?」

「何が、と言われても、何もかもとしか」

「それを言うべきは本来ならアリサさんじゃない?」

「日頃の行いを思い返してくれ、としか言えないな。本人には口が裂けても言えないけど」

 口にしたら最後、俺は精神的に八つ裂きにされるだろう。とてもじゃないがリスクとリターンを秤にかけたら、リスクが重すぎて地面に埋まりそうだ。
 ましてや、言ったところで有栖川の俺に対する態度が変わるとも思えない。上司に決められなければ、有栖川とのツーマンセルなんて御免だ。
 一人でも大差ない。むしろ一人の方がやりやすくて助かる。

「ごちそうさま。今日も美味しかった」

「おそまつさまでした。それなら心を込めて作った甲斐があったね」

 えへへ、と照れ隠しのような笑顔を浮かべつつ美桜が答える。本当によくできた妹だと心の底から思う。少し遅れて美桜も食べ終えたところで、洗い物は俺がしてしまう。
 何もかも任せきりは良くない。美桜の時間だって有限だ。その間に美桜はお風呂に入り始めたようで、シャワーの水音が聞こえてくる。
 俺は帰ってからでいいかな。疲れてて朝になるかもしれないけど。
 洗い物を終えて少し迷った挙句、有栖川に連絡をすることにした。仕事場所まで一緒に行くのか別で行くのかくらいは聞いておかないと、後で文句を言われかねない。
『今日は一緒に行くのか?』
 メッセージを送ってから数十分ほど時間を潰していると、やっと返事があった。『貴方のような男と並んで歩くなんて耐えられません』。まるで俺の気遣いを感じていないような物言いに、画面を見ながら頬がぴくぴくと震えてしまう。
 ……いや、それならいいんだけどさ。でも有栖川、方向音痴なんだよな。それも重度の。途中までは家の送迎で来るんだろうけど、今日の目的地は路地の向こう。必然的に歩かなければならない。……遅刻確定では?
 仕事前だってのに気が重い。今日は厄日だ。頼むから何事もなく終わってくれ。

 風呂を上がってきた美桜と十時頃までリビングのソファに座りながらゆったり過ごしていると、眠たげに欠伸を漏らしていた。瞼を擦りながらも、美桜は頭を俺の肩に凭れさせながら穏やかな表情を浮かべている。

「美桜、寝るなら部屋でな」

「……そうだね。でも、こうしてると落ち着くから」

 シャンプーの柑橘っぽい香り。囁くような声音。離れないでと言うように、美桜の細い指先が部屋着の裾を摘まんでいた。
 美桜の不安を感じ取って、少しだけ胸が痛くなる。同時に、それだけ想ってくれていることへの嬉しさもあった。

「ダメだ。風邪引いたら大変だから温かくして寝てくれ」

「うーん……わかった。部屋まで手、繋いで」

「はいはい」

 こういうときの我儘は聞いておくに限る。寝ぼけまなこの美桜と手を繋いで部屋まで連れて行って、ベッドに横になったところへ掛布団をかけた。

「ごめんね。先に寝ちゃって」

「気にするな。美桜がいるから、俺はこうして頑張れるんだからさ」

 申し訳なさそうにまなじりを下げる美桜の頭を触れるように撫でると、僅かに頬を緩ませた。この笑顔のために俺は生きているんだ。

「おやすみ、美桜」

「……うん。おやすみ、お兄」

 言葉を交わして、名残惜しさを感じつつも部屋を出た。一人残されたことで妙な寂しさが胸に残る。しかし、いつまでもここにはいられない。
 美桜が寝てからの時間は酷く退屈だ。俺にとって美桜は当たり前にいる存在で、でも、たった一人の特別な存在。それが空白になる時間が、俺は好きではない。
 それでも、俺は美桜の兄。その責務を全うしよう。
 家を出るまでの時間で、あらゆる戸締りを確認する。万が一にでも美桜を危険に晒す可能性を排除したい。一通りの工程を終えて、残りの引き伸ばされたような時間を学校の課題をして潰し、予定時刻が迫ってから支度を始めた。
 そして、とうとう家を出る時間が訪れて。

「――いってきます」

 誰もいない玄関に帰ってくる旨を伝え、静まった空気が満ちる夜の街に繰り出した。


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