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鴉と令嬢 特設SS
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深夜の東京。
見上げた夜空に揺蕩う三日月。
俺は一人、チカチカと明滅を繰り返す街灯が照らす路地を歩いていた。
現役高校生の俺が警察に見つかれば深夜徘徊で補導されかねないが、心配は無用。だが、長居はしたくない。早いとこ仕事を終わらせるとしよう。
ゴミが散乱し壁への落書きなども増えてきた路地を眺めながら治安の悪さを感じつつ、奥へ奥へと歩を進める。
人の気配はすっかり消えて、静寂に満ちた路地。
野良猫が
「みゃあ」
と鳴いた声と、使い古した革靴の足音が嫌に響く。
曇ったガラス窓に映るのは冴えない自分の顔。
死んだ魚のようだと評される目には黒い前髪が軽くかかっていて、陰鬱そうな雰囲気を漂わせている。春先の少々肌寒い気温に適したラフな服装から、つま先が少し汚れている革靴だけが妙に浮いていた。
でも、それ以上に右手の人差し指に嵌められた白い指輪は、自分でも似合っていないとつくづく思う。

「……俺が選んだことではあるけどさ」

思わずついた深いため息。
こんな仕事、出来れば辞めてしまいたい。
だけど。
妹を養うために俺が稼がなければ。優秀な妹に苦労はかけたくない。
シスコンかよって?そうだよ悪いか。
そもそも、たった一人の家族を愛して何が悪い。
取り留めのない思考を続けていると、ズボンのポケットにしまっていたスマホがバイブレーションと鈴の音のようなサウンドで着信を知らせた。
画面に映る名前は『有栖川ありすがわアリサ』。
ややこしい名前だが芸名ではなく本名。ついでに言えば、仕事の暫定パートナーでもある。
3コール目でようやく通話を繋ぐと、
『――0コールで出てくださいと日頃から言ってますよね、佐藤京介さとうきょうすけ
鈴のように澄んだ声で有栖川ありすがわは無茶を言う。
声音だけで想像できる容姿端麗なお嬢様的な人相。
実際に大企業を取り仕切る家の令嬢だし容姿も相当に優れているが、可愛ければなんでも許されると思うなよ。現実的には大体許されるんだけどさ。
それよりも――

「開口一番それか。てか今どこだよ」

『知りません。迷いました』

「はぁ?スマホなんて文明の利器があって迷った?」

『私が方向音痴なのは知っていますよね』

「だから待ち合わせで一緒に行くかって訊いたのに、『貴方のような男と並んで歩くなんて耐えられません』って断っただろ?」

『この世の摂理です。諦めて受け入れてください』
そんな理不尽極まる摂理があってたまるか。

「……で、迎えに来いって話しか?」

『それには及びません。一人でお仕事頑張って下さいとささやかながら激励をしようと思いまして』

「一人だけサボるな」

『手柄を譲ったんです。土下座で咽び泣きながら感謝して欲しいですね』

「俺に対する扱いの程度が知れるな」

『まあ、使い勝手のいい下僕程度には思っていますけど』

傍若無人な有栖川ありすがわの扱いにため息をつけば、返ってきたのは上品に笑う声。

『安心してください。可愛い冗談です。多少遅れますがそちらに向かいます』

「りょーかい」

『それと……私のことはお前ではなくアリサと呼んでくださいと何度言ったら――』

プツン、と。
最後まで言い切る前に通話を切って、スマホをポケットへしまい込む。確かにお前か有栖川ありすがわの二択だけどさ。逆に考えてもみろ。
俺みたいなモブ陰キャがあの有栖川ありすがわを呼び捨てなんかに出来るわけなないだろう?
普通に喋っているだけでも賞賛されて然るべきだ。
底辺思考を続けながら歩けば、路地の突き当たりへと辿り着いた。目の前には寂れた雑居ビルが控えている。明かりはポツポツとついていて、人の気配が窺えた。
曇りガラスが嵌められた扉の前に立ち、

「――さて。仕事を始めるとしますかね」

意識を切り替えるために呟いて、入口の扉を蹴破った。
あっさりとひしゃげて吹き飛んだ扉がエントランスの壁へ激突し、ガラス片がキラキラと宙を舞う。
悲鳴はない。代わりに響いたのは幾つもの乾いた銃声だった。
人間に命中すれば意図も容易く命を奪う殺意の雨を前に、俺は両手を閃かせる。
僅かな衝撃を手のひらに感じつつも、悠然と中へと侵入し混乱したスーツ姿の男たちへ目を通す。握っていた両手を開き、数十発の真鍮色の銃弾が床へ落ちる様を彼らへ見せつけた。
カラン、と転がる銃弾を前に男たちは呆然としていた。

「随分と乱暴な挨拶だな」

「――このっ、クソガキッ!!」

「何やってるッ?撃て?撃てッ?」

怒りを露わに拳銃の引鉄を引く男たち。
鳴り響く銃声。微かな硝煙の臭いが部屋に充満した。溢れる暴力の気配を全身でヒシヒシと感じながら、弾丸の雨を駆け抜ける。
スローモーションな視界、螺旋回転で迫る銃弾を目視で躱しつつ一番近い男へと肉薄。
無防備な顎を掌底で打ち抜く。脳震盪を起こしたのか握っていた拳銃を床に落とす。伸びきった腹へ蹴りを入れれば、くの字に身体を折れ曲げたまま横に飛んで壁へ激突する。

「次」

男へ一瞥すらせず、瞬時に間合いを詰めて次々と殺さないように処理していく。同士討ちが怖くて拳銃は撃てないと悟ったのか、数人で俺を囲んで襲うつもりらしい。
だけど、普通の人がいくら束になったところで俺の相手になりはしない。

「――『過重力ハイ・プレッシャー』」

パチンっと指を鳴らし、自らの異能を解放した。
すると、彼らは一様に床へ膝から崩れ落ち、意志とは関係なく俺へ頭を垂れる。立つことはおろか、身動ぎ一つとしてすることは叶わない。
俺の異能は『重力権限グラビティ・オーダー』。
世界における理の一角、重力を支配する異能。

「ぐっ……っ、お前、まさか『暁鴉ぎょうあ』っ?」

「ぐふっ!」

やめろその呼び名は俺に効く。
暁鴉ぎょうあ』――自分で名乗り始めたわけじゃない厨二病全開のそれを、いい大人がガチトーンで言うと笑うに笑えないよな。……ほんと、笑えない。
さっさと仕事を終わらせて不貞寝しよう。
八つ当たり気味に強めた重力に耐えられず男たちは全員意識を失った。
彼らに見向きもせず、エントランスから非常階段を登って上階も同じように制圧していく。
最上階にいるらしい標的に逃げられないようスピード勝負だ。余計な手間をかけず、一瞬で意識を刈り取って次の階へ。
そんな工程を何十回と繰り返し、最上階まで登り詰める。
元々俺の担当は陽動だったのだが、有栖川ありすがわが来ない以上最後までやるしかない。これで標的に逃げられていたらと思うと胃が痛む。
警備で立っていた二人の意識を奪い、標的がいる部屋へ繋がる豪奢な扉を『反重力アンチ・グラビティ』で吹き飛ばし、突入という瞬間、

「――っ!」

部屋の中から業火が濁流のごとく押し寄せた。瞬時に体の周囲を圧縮した重力の膜で覆い、空間を歪めて身を守る。
やがて炎が消えて、黒煙と嗅ぎ慣れない甘ったるい匂いが漂う部屋の中央で佇む一つの人影を捉えた。

「――だらしねぇな、こんなガキ一人に殺されやがって。折角貰ったブツも燃やしちまった。どうしてくれんだよォ、オイ」

粗野な男の声。
黒煙が晴れて見えたのは事前に頭へ入れていた厳つい男の顔。逃げることなく俺のことを待ち構えていたみたいだ。
だけど、一つ訂正することがある。

「おっさん、俺は一人も殺しちゃいないっての。勝手に人を殺人犯にしないでくれ」

「あぁ?豚箱行きなら似たようなモンだろ」

「その理屈からすると、おっさんもこれから死ぬことになるな」

「――ほざけッ?」

男は前方……即ち俺へ向けて手のひらを翳し、虚空から赤く燃える炎を噴射した。
轟、と空気が焦げ付き、圧倒的な熱量で熱された空気が肌を焼く。
男の異能は『火焔操者(フレイム・プレイ)』、異能強度は十段階中のレベルⅥ。十二分に強力な異能と呼べるだろう。
この炎だって、人一人を焼き殺すくらいは造作もなくこなせる。
――それが俺でなければの話だけど。

「『過重力ハイ・プレッシャー』」

「――っ、ぐ……っ」

部屋を支配する通常の何十倍にも及ぶ重力が文字通り重さとなって男にのしかかる。
炎は打ち消され、男は四肢を床へと張り付かせて蹲ったまま呻く。

「悪いな、おっさん。アンタも漏れなく豚箱行きだ」

「……っ、白い指輪の重力使い――お前、『異特いとく』の『異極者ハイエンド(ハイエンド)』かっ?」

「今更気づいても遅い」

「……なん、で、こんな、くそ、がきに……っ!」

「――放火七件、死傷者は三桁、被害総額は億越え。全部、お前自身がやったことだ」

俺が羅列したのは男が犯した罪。
こいつは数え切れないほどの人を殺し、世の中を混乱に陥れた異能犯罪者だ。だから俺が……俺たちがこいつを捕まえるために仕向けられた。
もうお喋りはいいだろう。

大野炎地おおのえんや、お前の身柄を拘束する。逃げようだなんて思うなよ?その気になれば一瞬で床のシミにしてやれる。お望みなら止めないが」

わざと猶予を作ってやるも、男は反応を示さなかった。圧倒的な実力差を本能的に感じ取ったのだろう。何をやっても無駄だとわかっていながら突撃する人はいない。
無抵抗の男に異能絶縁の手錠を嵌めて一件落着だ。
有栖川ありすがわは最後まで来なかったけど……連絡だけは入れておくか。仕事を終えた旨をメッセージで送信し、続いて上司へも話をつける。
これで俺の仕事は終わり。後のことは後詰めの人達に任せて俺は家に帰るとしよう。
俺の本分は学生。
誰がなんと言おうとも、身に余る力を持っていたとしても。
それは決して、譲れない。


case.1 目覚めし鴉

「――い!お兄っ!」

「っうぷ?」

腹部に感じた壮絶な重みで夢の世界から叩き起された。
眠気眼で見上げた先には制服の上にエプロンを着た妹――美桜みおの顔。艶やかな二つ結びの黒髪が跨りながら動く度につられて揺れる。
まるで現世に君臨した天使のようだ。
今日も世界一可愛いな……とか言うと真顔でキモがられるので心の中だけに留めておく。万が一にでも
「お兄嫌い!」
などと言われれば、自己喪失の果てに世界を滅ぼしかねない。
いや、冗談だけど。要するにそれくらいのショックを受けるって話だ。
窓から差し込む眩しい朝日に当てられて、徐々に意識が覚醒していく。
仕事を終えて夜中に帰った俺は眠気に耐えられず、シャワーも浴びずに寝落ちした。壁掛け時計を見れば、現時刻は午前7時前。3時間睡眠は身体に絶対悪いって。

「お兄、起きてるー?」

「あーはいはい。起きてる起きてる」

美桜みおの問いかけに空返事。二度寝は許してくれそうにない。ふぁぁ、と大きく欠伸をして上半身を起こすも、美桜みおが退く気配はなかった。
じーっと俺を見つめるアーモンドのような瞳に宿るのは不安や心配といった感情。俺が仕事から帰った翌朝はいつもこうだ。
美桜みおも事情は知っているし、何度も話し合って俺があの仕事をすることを認めている。
けれど、それとこれとは話が別。

「心配かけたな」

「……ん」

いつものように背へ手を回して軽く抱き寄せれば、美桜みおは自分から胸に顔を埋めた。
静かな息遣い。微かに甘く、心が落ち着く温かさを伝えあって。
数秒間の沈黙。
それは俺と美桜みおが日常を確認するための儀式。これでようやく、帰ってきた実感が生まれてくる。
ややあって美桜みおが離れ、憑き物が落ちたように晴れやかな笑みを浮かべた。
周りの人間に元気を分け与える太陽のような、そんな笑顔。

「よしっ!じゃあ、私は朝ごはん作りに戻るからね。出来上がるまでにシャワー浴びてくること!」

「はいよ。毎朝ありがとな」

「いいのいいの。お兄の世話焼くの割と楽しいから。ダメ人間観察日記的な?」

「それは勘弁」

敵わないなと笑ってやれば、ぱたたーと美桜みおは部屋を出ていった。
さて、俺も朝の支度をしなければ。
美桜みおの冗談が現実になったら兄としてのちっぽけな矜恃が粉砕される。
手早くシャワーを浴びて登校の身支度を済ませてリビングへ行けば、ちょうど朝食の用意が出来た頃合いだった。

「あ、いいところに。これ運んでちょーだい」

「おっ。今日は和食か」

「鮭の切り身が安かったからね。それにほうれん草のおひたしとお味噌汁。具材はお兄の好きな油揚げと大根です」

「流石は美桜みお。兄のツボをわかっていらっしゃる」

「ふふふーっ、もっと褒めてもいいのだよ?ほれほれ」

なんて、兄妹で漫才をしつつ、テーブルに出来たての朝食が並んだ。席に座って手を合わせ、二人揃ったところで
「いただきます」
と言ってから箸をつける。
焼きたての鮭を箸で解して口へ運ぶと絶妙な塩気が食欲をそそり、白米へ手が進む。そのまま流れるようにおひたしと味噌汁も一通り食べて、一息。

「……ああ、ほんと美味い」

「お兄の胃袋は私が握っているのです」

「あながち間違いじゃないのが悔しい」

事実、家事全般を支えているのは美桜みおだ。
中学二年生でありながら、美桜みおの腕前は歴戦の主婦に勝るとも劣らないだろう。特に料理は群を抜いている。クリスマスケーキやおせちなんかも自分で作る筋金入りで、しかも美味い。
俺の妹とは思えないくらいの優秀さに加えて、絶対無二の美少女。四捨五入でようやくフツメンの下程度な俺にも顔面偏差値を分けて欲しかった。
他愛ない話をしながら朝食を食べ終え、使った食器を洗ってしまう。美桜みおが家事万能だからといって、全て任せてしまっては時間がいくらあっても足りない。学校がある平日の朝となれば尚更だ。
食器を洗い終えてから荷物を取りに部屋へと戻り、並行してスマホに連絡が入ってないか確認する。電源を入れると、数件のメッセージが画面にポップアップした。
うち三つはニュースや天気なんかのお知らせだ。だが、最後の一つは違った。
差出人は有栖川ありすがわ。内容は簡潔――『覚えておいて下さい』と一言。

「怖すぎだろ」

余計な情報が一切含まれていないのが逆に不安感を煽る材料になっている。
有栖川ありすがわは冷静で頭の回転は早いのに、どうしてこうも短気なのか。……冷静と短気って矛盾してないか?それなりの付き合いがあっても何が琴線に触れるのか理解出来ない。
俺の中では突発的沸騰物として危険人物にカテゴライズされている。
それにしても、

「怒らせるようなことしたか?」

頭を捻ってもそれらしい事柄が思い浮かばない。直近なら有栖川ありすがわを置いていって仕事を終わらせたことか?一応連絡はしたけど見てなかったって可能性は――

「……あ。送信出来てなかった」

有栖川ありすがわとのトーク画面を見て気づく。
仕事が終わった旨を知らせるメッセージは、操作ミスで送信されずに電子の海へ消えていたようだ。
つまり、全てが終わったビルで有栖川ありすがわは無為な時間を過ごしたことになる。……うん、これは俺が全面的に悪いわ。
会ったらちゃんと謝ろう。言い訳くらいは聞いてくれるはずだ。許してもらえるかは有栖川ありすがわの気分次第だけど。

「お兄ー!そろそろ行かないと遅刻するよー!」

中学校の制服を着こなした美桜みおが待ちかねて部屋へと突撃してきた。惜しげもなく晒される健康的な脚のラインは春特有のものだろう。
年頃だからと背伸びをしているのか、膝上のスカートが兄としては気になるところだ。パンツ見えない?大丈夫?

「あーっ、どうしてアイロンかけてない方のシャツを着るかなぁ」

「えっ……ほんとだ」

「気を抜きすぎだよ。着替えるまで待っててあげるから、早く来てね」

返事を聞かずにヒラヒラと手を振って美桜みおは部屋を去った。確かに気が抜けているのかもしれない。
シャツを着替えてブレザーを羽織り直し、ネクタイがキッチリ締まっているか鏡で確認。俺が身嗜みを意識して整えなければ美桜みおの努力も浮かばれない。
なにより、身綺麗にしていれば当社比で自分の不出来な顔が多少マシに見える。
遅れて玄関へ向かえば、靴も履いて準備万端な美桜みおが髪を弄って待っていた。

「悪いな、待たせて」

「ううん。じゃあ、行こっか」

だが、登校準備が完了したのを見計らったかのように、ピンポーンとチャイムが鳴った。
誰だろうかと美桜みおと顔を見合わせる。こんな朝からの来客予定はなかったはずだ。美桜みおを後ろに下がらせて、何かあってもいいように俺が扉を開ける。
すると、美桜みおと同じ中等部の女子制服を着用した、ショートヘアの女の子が笑顔のまま佇んでいた。

「おはようございます、先輩っ!美桜みおちゃんっ!」

「……十束か。おはよう。こんな時間に誰かと思ったぞ」

「おはよー、瑞葉ちゃん」

美桜みおは十束に元気よく挨拶を返し、ハイタッチを交わす。
朝から若々しいハイテンションにはついていけず、
「先輩、ノリ悪いですよー?」
と頬をわざとらしく膨らませる十束に苦笑するしかなかった。
十束瑞葉とつかみずは――彼女は美桜みおと同級生ということもあって交流が多い。そのついでなのか分からないが、妙に俺にも関りを持とうとしている節がある。
先輩呼びもその一環なのだろう。何かの間違いでとんでもない勘違いをしたらどうしてくれるのか。
十束は俺の目で見ても美少女枠にカテゴライズされる存在。だからこそ、俺は何度だって言ってやる。陰キャに優しい美少女など幻想だ。

「それでは今日も張り切っていきましょうっ!」

「おー!」

元気のいい十束の掛け声に美桜みおも続き、意気揚々と外へ出ていく。無邪気に笑う十束のそれは、世の中の男子が求める後輩像を絵にしたようだ。

「先輩、どうしたんですかー?早くしないと遅刻しますよ!」

「お兄早くー」

「ん、ああ。行くか」

「歯切れの悪い返事ですねー。もしかして瑞葉たちのことを考えていたんですか?」

「そうとも言うし、そうとも言わない。かもしれない」

「なんですかそれ。ダメですよー、先輩にガチ恋されても困っちゃいますからね」

「しねえよ」

とは言ったものの……陰キャに優しい美少女が妄想だったとして、その眩しさを俺たち陰キャが否定できるとは言ってない。
所詮は弄ばれるだけの弱者。虚しい限りだ。

「手でも繋いでいきます?」

「あらぬ誤解を生むから断る。二人で繋いでくれ」

「えー、お兄も繋いだらいいのに」

「朝から警察の厄介にはなりたくない」

「冷たいですねー。ではでは、美桜みおちゃんのお手を拝借」

むう、と唸ってから、十束が美桜みおの左手を握って、俺たちは登校を始めた。
学校までの道のりはそう遠くない。十分ほど歩けば俺たちが通う学校、天道学院の大きな校舎が見えてくる。整備された並木道の先にある門を通れば、中等部と高等部で左右への分かれ道。
中等部の二人と別れて、俺は一人で高等部の校舎を目指した。
天道学院は東京にある中高一貫の異能者育成機関。
異能者は人口のおよそ一割しかいないが、異能力は人間の命を易々と奪う凶器になる。そのため、制御を身に着ける場が必要だと判断した国が設立した教育機関である。
全国にいくつか異能者の学校はあるが、天道学院が規模も生徒数も一番多い。
また、異能者学校には異能の優劣をつける場ではないという方針が共通で掲げられている。これは異能者という存在が安全であることを印象付けるため……という意見もあるが、おおむね間違ってはいないと思う。
高位の異能者なんて現代兵器に匹敵する危険度だ。それが意思を持って存在しているとなれば、異能を持たない人が不安を感じるのは自明の理。
そういった理由もあって、異能者の青少年を一括管理できるように国立学校に収容している……という考えは少々ひねくれすぎか。
表向きは将来国の利益になる人材育成の場。国立学校なだけに設備や待遇が良いのは飴の部分だろう。
玄関で上履きに履き替え、五分くらいの余裕をもって二年二組の教室に到着する。
談笑する人、机に突っ伏して眠る人、勤勉に授業の予習をする人。俺の存在には誰も興味を向けない。
窓際の一番前の席に座って、スマホを弄りながら適当に時間を潰していると、教室内に女子生徒の黄色い声が一斉に響き渡った。
またか、と思いながら完全無視を決め込んでいると、

「やあ、京。おはよう」

爽やかな声が肩の後ろから聞こえて、げんなりとしながらも振り向く。
見るからにイケメンオーラが漂う男子生徒――神音颯斗かみねはやとが、俺に向かって白い歯を覗かせながら、女性陣なら一発で落ちるような笑顔を浮かべていた。
モブ陰キャの俺には友達はおろか、知り合いと呼べる相手も少ない。
だが、俺に関わろうとしてくる物好きは一定数存在し、その一人が何一つとして接点がなさそうな颯斗だ。
イケメンかつリア充、勉学も優秀で周囲からの信頼も厚い颯斗ではあるが、『異能強度』はレベルⅡ。天は二物を与えても三物までは与えなかったようだ。欠点になるかと言われると微妙なところだが。
まさか自主的に挨拶をしてきた颯斗に返事をしないわけにもいかず、
「おはよう」
と短く返す。
瞬間、周囲の女子からの視線が一気に強まった。嫉妬や怒りにも似た負の感情を背に受けて居心地の悪さを感じるも、颯斗に悪意がない以上は何を言っても無駄だろう。
というか、波風立てたくない。

「相変わらずの不愛想だね。寝不足?」

「いつも不愛想で悪かったな。寝不足だからホームルームまで寝かせてくれ」

「居眠りには気を付けなよ?」

「わかってるっての。てか、颯斗は俺なんかより相手をするべき奴がいるだろ」

ちらりと横目で気づけと念を送ってみるも、颯斗は軽く笑うのみだ。
頼むから鈍感系主人公はやめて欲しい。

「誰にも僕の交友関係を指示される覚えはないよ。じゃ、また」

「また来る気なのかよ……」

頭痛の種が増えたことに難儀しながら、やっと去っていった颯斗の背を見送る。俺から離れてすぐに友人たちに囲まれて、数人で楽しげに会話を繰り広げていた。
別に羨ましくなんかないんだからねっ!……普通にキモくて吐き気がしてきた。
やっぱり青春臭いセリフはイケメンと美少女が言うに限るな。少なくとも俺には似合わない。
俺は納戸の奥で埃をかぶった日本人形よろしく静かに過ごしていよう。それで平穏な学校生活が送れるなら安いものだ。
再度机に突っ伏して時間を潰すと、教室にホームルームの予鈴が響いた。顔を上げれば扉が開いて、濃い隈を貼り付けたビジネススーツ姿の女性が入ってくる。
彼女は二年二組の担任、鳳静香おおとりしずか先生だ。静香さんの目は俺から見ても精気が感じられない。寝不足なのだろうか。
欠伸を噛み殺しながら教壇について教室を見渡し、

「……欠席なし。ホームルーム始めるぞ」

特に挨拶もなく、静香さんは連絡事項をクラスに伝えていく。
俺には関係する情報はなかったため話半分で聞き流していたが、

「――ああ、それと……佐藤京介さとうきょうすけ。話が終わったら生徒指導室に来い」

突然の名指しに教室全員の視線が俺へ向く。後ろからは
「また?」

「アイツ見かけによらねぇよな」
などと、隠す気のない陰口が聞こえてくる。
事情を知らなければ俺もそう思ってしまうだけに、心の中で深くため息をつく。いや、事情があるにしても生徒指導室に呼び出すのはやめて欲しい。
俺は善良な一般生徒。断じて犯罪や非行に手を染めてはいない。

「ホームルームは終わりだ。さっさと授業の準備をしろ」

無愛想に言い残して教室を出ていく静香さんの後を慌てて追う。廊下で少し後ろを歩き、ややあって生徒指導室の中へ入る。
静香さんは窓辺のパイプ椅子へ乱暴に腰を下ろし、対面に俺が座るように指をさす。言われるがままに座ると、静香さんの口が動いた。

「――お前、何をした?」

端的な問い。
厄介事を持ち込んでくれたな、とでも言いたげな眼が俺を射抜く。

「なんの事かさっぱり……」

「ああ、悪い。主語が抜けていた。お前は有栖川ありすがわに何をしたのかって話だ」

「はい?」

「お前ら同じ仕事だっただろ。昨日、回収途中に有栖川ありすがわを拾ってな。滅茶苦茶に不機嫌だったぞ」

静香さんの言葉は、俺も所属する組織『異特いとく』の上司としてのものだった。
静香さんは昨日、俺が処理したやつらの回収を担当していた。だから一緒に仕事をするはずだった有栖川ありすがわのことを訊かれているのだろう。
全部俺が悪いのはわかるけどマジで遭遇したくねえ……まだ死にたくない。
念のため経緯を説明すると、静香さんは唸りつつ眉間を揉んで、

「お前と一緒に目的地まで行きたくない有栖川ありすがわが道に迷った。で、全部終わったビルに有栖川ありすがわを放置したまま帰った……と」

「終わったから帰るってメッセージを送ったと思ったら送れてなかったんですよね」

「そんなことだろうと思ったよ」

静香さんもある程度は予想できていたらしい。俺も有栖川ありすがわが不機嫌な裏付けが取れてしまい頭を抱えた。
俺と静香先生にもどうしようもないことはある。真っ先に上がるのが有栖川ありすがわのご機嫌。
機嫌が悪い有栖川ありすがわは接触禁止どころか、視界に入れることすら躊躇われる第一種危険物。しかも表情に大した変化がないため、傍目には普段通りに映る。
導火線に火がついてるのか確認できない爆弾とでも理解してくれ。……普通に質が悪い。

佐藤京介さとうきょうすけ、なんとかしろ」

「無茶言わないでくださいよ。俺が学校で有栖川ありすがわとは関わりたくないって知ってますよね?」

「方や将来を約束された大企業の令嬢で生徒会副会長も務める才女。方やちょっと異能が使える程度の底辺生徒か?」

「間違っても教師が生徒に真っ向から言うセリフじゃないですよ」

「違うのか?」

「違いませんけど……俺みたいなのが有栖川ありすがわと話してたら余計な反感を生むんです。平穏に学校生活を送りたい俺としては、有栖川ありすがわと関わるのは得策じゃない」

学院内における有栖川ありすがわの肩書は天道学院生徒会副会長。要するに、多くの生徒から代表にふさわしいと選ばれ、生徒会の一角を担っているのだ。しかも、次期生徒会長の最有力候補とまで噂されている。
俺と有栖川ありすがわの学院での力関係は社長と下っ端のバイトくらい離れている。真実が全く違うとしても、学校の生徒は裏の事情なんて知るよしもない。
そして、なにより。

有栖川ありすがわが興味を持っているのは異能強度レベルⅩ――『異極者ハイエンド』の『重力権限グラビティ・オーダー』であって、佐藤京介さとうきょうすけという一人の人間ではありません」

もう話は良いだろう。
追求を避けるように席を立ち、生徒指導室を出ようと扉に手をかけた俺へ、後ろから声がかかる。

「一応言っておくが、有栖川ありすがわが勝手にやるのに私の許可も指示もないからな。私は何も悪くない。気づかないお前が悪い」

「それ大人としてどうなんです?」

「知るか。そもそもお前らは仕事のパートナーだろう?機嫌くらい取ってやれ」

「俺の扱い雑過ぎません?確かに俺は有栖川ありすがわとパートナーってことになってますけど、俺だけに任せるのは違うでしょう?」

俺が有栖川ありすがわと一緒に仕事をするようになったのは数か月前。理由は連携力の向上のためと聞いている。
とはいえ、それは本当に必要なことだろうか。
異極者ハイエンド』の俺は異能者の格としては最高。有栖川ありすがわも一つ下だが、十二分に強力な異能者だ。
だからこそ、他の異能者はいてもいなくても変わらないことがほとんど。
それに、誰かの背中なんて預かりたくない。

「『異特いとく』所属とはいえお前と有栖川ありすがわは高校生だ。未熟者同士で助け合えってことだろうな」

「俺がどうやって有栖川ありすがわを助けろと?」

「知らん。それを考えるのも仕事のうちだぞ、京介。いや……『暁鴉ぎょうあ(ぎようあ)』?」

ニヤニヤと口角を上げて俺の厨二病極まる異名を静香さんが口にした。返事をする気にもなれず、頬を引き攣らせたまま静香さんへ視線を送る。
第一、こんな呼び名を考えたやつ誰だよ。聞くだけで恥ずかしいからやめて欲しい。共感性羞恥ってやつ……じゃないな。俺のことだし。
前から思ってたけど異能犯罪者たちが『暁鴉ぎょうあ(ぎようあ)』なんて仰々しい呼び名を考えたとは思えないんだよな。知り合いの中に犯人がいると睨んでいるが、真相は闇の中だ。

「ま、そういうわけだ。たまには高校生らしく青春してこい」

有栖川ありすがわと青春?冗談だとしても笑えません」

俺の望んだ青春は灰色。変えたいとも思わない。
ぶっ飛んだ現実なんて仕事だけで腹いっぱいだ。
生徒相談室から教室へ戻ると、既に授業が始まっていた。担当の先生へ事情を説明してから席へつき、教科書を広げて授業に意識を傾ける。
鬱陶しいことこの上ない。 教室のそこかしこでヒソヒソと話す声や視線が俺に向けられているのを感じる。
どうせ俺が何をやらかしたのか意味の無い憶測を重ねているのだろう。事実は俺と静香さんしか知らないのだから、早いとこ無駄だと理解して欲しい。
何事もなく授業は進み、午前最後の四限の終わりを告げる鐘が鳴り、挨拶をして昼休憩に入った。
購買のパンを欲して教室を走って出ていく生徒を後目に、鞄から美桜みおが作ってくれた弁当を取り出す。可愛らしい猫柄の包みを解いて蓋を開けると、彩り豊かなおかずと海苔を散らしたご飯が出迎えた。

「今日はのり弁か」

毎日のように妹の手作り弁当が食べられる幸せを噛み締めながら手を合わせる。
まずは一口サイズのたこさんウィンナーを頬張り、続けざまにご飯を運ぶ。愛が詰まってる美味しさだ。素朴ながら安心する味、といえば良いだろうか。
何にせよ美桜みおが作ったのだから美味しいに決まっているけどな!
箸を休めず食べていると、不意に教室がザワついていることに気づく。俺には関係ないだろう。最優先は美桜みおが作ってくれた弁当を米粒一つ残さず完食することだ。
誰にも至福のひとときを邪魔させはしない――

「――佐藤京介さとうきょうすけ

……なんか、ご機嫌斜めな聞き覚えのある女の声がしたような。
いや、現実問題として有り得ない。俺と関わろうとする極小数の物好きが昼食中にたまたま居るなんて。

「……聞いていますか、佐藤京介さとうきょうすけ

突如、声と共に机の上から消えた美桜みおの手作り弁当。
目で追ってみれば、艶のある白銀色の長髪と、それを彩る小さな青い花の形をした髪飾りが映り込む。女子制服に包まれるスレンダーな身体は、とても美しいプロポーションを誇っていた。
人形のような白皙の肌。しかし、頬と唇の桜色が人間であることを示していた。パッチリ二重の目は綺麗な海のような鮮やかな色合い。
まさか、という予感は的中した。
思わず悲鳴を上げたくなる気持ちを堪えて、 至極冷静な対処を努める。

「……えっと、学校の有名人がモブ生徒の俺に何の用でしょうか、有栖川ありすがわアリサさん。あと、弁当返して欲しいんですけど」

「私の声が聞こえていないご様子だったので。貴方に用があります。お話を聞いて頂けますよね」

綺麗な顔に、慎ましい微笑みを刻んでその人――有栖川ありすがわは俺に言った。訊き方に反して、俺に選択権は存在しない。
それは何故か、単純な理由。俺は周囲から素行不良と思われている底辺生徒であり、有栖川ありすがわは生徒会副会長も務めるスクールカーストトップの才女だからだ。
しかも、有栖川ありすがわの実家は世界に名を轟かせる大企業、有栖川ありすがわグループ。手広い事業のみならず、異能研究にも多額の献金をしている。そんな家の娘となれば、一般庶民なんかと住む世界が違う正真正銘のお嬢様だ。
衆人観衆の中で有栖川ありすがわの誘いを断ればどうなるかなんて目に見えている。余計な反感を買って学校生活の居心地をこれ以上悪くはしたくない。
俺が取れる選択肢は承諾の一手のみ。
さらば、優雅で平穏なランチタイムよ。

「……ああ、わかった。それと、弁当返してくれ」

「これは失礼。では行きましょうか。お弁当も持ってきてもらって構いませんよ。私も昼食がまだなので、食べながらお話しましょう」

丁寧に机へ戻された弁当を包み直し、着いてくるように無言で訴える有栖川ありすがわの後を追う。教室を出る際に嫉妬と憎悪を含めた視線と、
有栖川ありすがわ様がどうしてアイツに話しかけたんだ……?」
と心底からの懐疑を感じさせる呟きが聞こえてくる。俺も全く同じ意見だから出来ることなら変わって欲しいよ。
まるで俺がいないかのような速度で有栖川ありすがわは歩を進める。それに文句の一つも言わずに追随すると、階段を登って屋上へ繋がる扉の鍵を開けた。

「……つかぬ事を訊きますが、どうして屋上の鍵を?」

「静香先生に少しばかり相談したら、快く貸していただけましたよ」

静香さん……生徒に屈しないで下さいよ。不機嫌な有栖川ありすがわと関わりたくないのは誰もが同じなのに、俺だけ生贄って酷くない?
静かな屋上を抜ける風は暖かく、ブレザーの布地がヒラヒラとはためく。安全対策のフェンス越しの景色は見晴らしが良く、つい夢中になってしまいそうだ。

佐藤京介さとうきょうすけ、来てください」

「へいへい……」

小さな段差に腰を下ろした有栖川ありすがわが座れと催促するので、二人分の間隔を空けて隣へ。ここまで来れば人の目は気にしなくていい上に、近づいてくる人が居れば気配と音で気づく。
普段のような話し方でぞんざいに応えつつ、食べかけの弁当を膝の上で広げる。隣で有栖川ありすがわも手提げから小さな水筒と手作りらしいサンドウィッチを取り出した。
自分で用意したとは考えにくい。
有栖川ありすがわの朝の弱さは折り紙付きで、起きて身支度を整えるので精一杯とは本人の言。

「で、用事ってなんだよ」

「どうして空のように広く寛大な心を持っている私が怒っているか、心当たりはありますよね」

有栖川ありすがわは俺のことなど気にせず続けた。寛大?誰のこと?
そんな疑問を浮かべ――アリサの機嫌を損ねたくないと防衛本能が作用して思考を振り払う。
一度咳払いを挟んで、

「……悪かった。先に帰るって連絡を入れたつもりだったけど、送れていなかったみたいだ」

きっちり身体を向けて謝り、有栖川ありすがわの返答を待つ。
走る緊張。
大丈夫、流石の有栖川ありすがわも誠心誠意謝っている人を責めたりはしないはず――

「――事情はわかりました。意図せぬ事故だと、そう言いたいのですね?」

「あ、ああ。そうなんだ」

「ですが、私をほったらかしにした事実は変わりません。最低です、佐藤京介さとうきょうすけ

「今の流れでそれは無くない??」

そこはかとない理不尽さを感じて頬が引き攣る。有栖川ありすがわアリサという人間への理解度がまるで足りていなかったらしい。
当然のように言ってのけた有栖川ありすがわはサンドウィッチを頬張り始めた。
俺の事など眼中に無いのか。しかし、不機嫌なまま返す訳にもいかない。機嫌が治るまで胃が締め付けられるような思いをするのはゴメンだ。

「……で、何をすれば許してもらえるんですかね」

「話が早くて助かります」

始めからそれが目的かよ。

「俺に出来る常識的な範囲で頼むぞ」

「誰も佐藤京介さとうきょうすけなんかに期待していません。……今度の週末、ちょっと付き合ってください。仕事と私用です。予定なんてすっからかんでしょう?」

「私用はともかく仕事?」

「ええ。まさか、都合悪く用事があるのですか?」

「……ないけど」

「なら決まりです。忘れたら美桜みおちゃんにあることないこと言いふらすので、そのつもりで」

立派な脅迫ではなかろうか。
退路は残っていないものの、要求内容が不透明なことを除けば予想よりもかなりマシだ。
「私を満足させなさい」
とかの抽象的な要求は本気で困る。
コミュ障対人弱者の俺に求めるべきじゃない。

「それと、今日の放課後は」

「わかってる。心配しなくていい」

「心配なんてしていません。貴方が来ないと、また待たされることになるので」

「その節は大変申し訳ありませんでした」

「……そこまで言われると私が悪人みたいじゃないですか。別にもう、怒ってはいません」

頭を上げると、不服そうにむっと眉を寄せている有栖川ありすがわの顔がある。素が美人だと怒っている顔も様になるな……なんて浮かんだ思考を、素知らぬ顔で呑み込んだ。
火災現場に油を注ぎたくはない。
有栖川ありすがわがこほん、と調子を取り戻すように咳払いをして、

「話は終わりです、佐藤京介さとうきょうすけ

「そうか。じゃあ、俺はこれで」

完食した弁当箱を包んで立ち上がろうとすると、右手首に細く冷たい指が絡まる。ここでの力関係的に解くことは出来そうにない。

有栖川ありすがわさん?」

「私のような美少女とのランチタイムを楽しめる機会はそうそうないですよ?ましてや貴方のような年齢=彼女なし……いえ、一生愛する伴侶を見つけられない貴方は、この幸運を噛みしめるべきです」

「俺に恨みでもあるの?てか、自分で自分を美少女なんて言うか普通。精神が腐ってるんじゃないのか?」

「手首、握り潰してもいいですか?」

「ひえっ」

「……冗談ですよ。そう怯えられると悪いことをしている気分になるのでやめてください」

ぱっと手を離して、有栖川ありすがわは柄にもなく微笑んだ。そこらの男子生徒なら一瞬でノックアウトされる笑顔も、俺には裏があるようにしか見えない。
午後の授業が始まるまであと10分そこそこ。眠気を誘う春の陽気を浴びながら、普段より声のトーンが明るい有栖川ありすがわと当たり障りのない会話をして乗り切るのだった。

午後の授業を終えてから向かう先は高等部と中等部の中間あたりに位置する、一軒家くらいの大きさの建物だ。表向きには小規模なオリエンテーションなどで使われているが、今日の活用目的は少し違う。
既に開錠されている扉から中に入り階段へ。そして、一般生徒は立ち入り禁止と書かれた地下保管室の鉄扉をノックする。
すると内側から扉が開かれ、光が漏れた。

「あ、京ちゃん!早く入ってください!」

俺を出迎えたのは俺の胸くらいまでの身長の女子生徒、伽々里佳苗かがりかなえさん。こんな背格好ではあるものの、伽々里さんは三年なので先輩だ。

「京ちゃん?どうかしましたか?」

「ああいや、なんでもないです」

「そうですか?悩み事があれば相談に乗りますから、気軽に話してくださいね」

萌え袖と化した手を、自分の薄い胸に置いてポンポンと叩く。本人的には頼もしい先輩像を意識しているのだろう。どう返したらいいかわからず、苦笑で誤魔化す。
追って中に入り、鉄扉の鍵を施錠。きっちり閉まっているか確認も済ませる。
『保管室』という面目の部屋は、綺麗に整頓されていた。
備品のテーブルとパイプ椅子が中央に並び、壁際にはパソコンと数枚のモニターも設置されている。天井から垂れ下がったスクリーンには、まだ何も映っていない。
そんな部屋にいるのは俺と伽々里さん、そして優雅に紅茶の入ったカップを傾けて読書に集中する有栖川ありすがわの姿があった。
だが、有栖川ありすがわも俺が来たことに気づいたらしく、本へ視線を落としたまま、

「遅かったですね」

「これでもホームルーム終わってから急いだつもりなんだけどな。十束は?」

「まだ来ていません」

有栖川ありすがわが答えた直後、リズミカルなノックが部屋に響く。こんなことをする人物は一人しかいない。
俺を出迎えたのと同じように伽々里さんが扉を開けると、そこには笑顔の少女――十束瑞葉とつかみずはがいた。

「遅れてすみませんっ!」

「大丈夫ですよー。さっき京ちゃんが来たばかりなので!」

視線を受けて頷くと、十束は有栖川ありすがわの対角線上に座った。そして、俺を見ながら隣の座席を手でポンポンと叩く。
隣に座れと言いたいのだろう。特に座席へのこだわりがない俺は促されるままに座った。

「さて。これで『裏生徒会』メンバー大集合ですねっ!」

「『裏生徒会』なんて組織はないですよね、伽々里さん」

俺のツッコミなど意に介さないテンションの伽々里さんは、得意げにパソコンを操作した。キーボードを勢いよく叩いて、スクリーンへ映像を映す。通信中なのか、まだ黒いままだった。

「静香先生はどうされたのですか?」

「静香ちゃんはお仕事があるので、今回は私が進行を務めます!」

ふふんっ、と伽々里さんが鼻を鳴らして答え、スクリーンの映像が切り替わる。
映し出されたのはオフィス然とした背景と、一人の男性の顔。異能犯罪者を取り締まる国家組織『対異能犯罪特務室』――通称『異特いとく』を取り仕切る異能者、地祇尊ちぎみことさんだ。
厚い胸板がスーツを押し上げる巌のような立ち姿は自然と威圧的な印象を与えるが、優しく人情のある人物だとこの場の全員が理解している。
地祇さんがいるのは官公庁が軒を連ねる霞が関。『異特いとく』関係者が働いている部署だ。今ここに『異特いとく』のメンバーが集まっているのは、決して偶然ではない。
この集まりは『裏生徒会』ではなく、『異特いとく』に所属している学生メンバーが集まったものだ。学院支部、なんて呼んでもいいかもしれない。
我が物顔で席に座っている十束と、先輩風を吹かせている伽々里さんも『異特いとく』のメンバーである。
十束は二つの異能を持っている珍しい異能者だ。一つは離れた人と声を出さずに会話ができる『念話テレパス』。もう一つは接触した人間・物体の記憶を読み取る『記憶閲覧メモリアル・リーダー』。どちらも非常に有用な異能と言える。

「さすが伽々里先輩。私たちの中で唯一の大人なだけあって頼もしいです!」

「瑞葉ちゃん……!」

十束の発言を伽々里さんが大慌てで遮る。
伽々里さんは年齢を詐称して学院に席だけを置いている、普通に成人済みの女性だ。学院と『異特いとく』は繋がっているため、特に問題も起こらない。
伽々里さんが学院にいるのは俺や有栖川ありすがわ、十束との連絡などを円滑にするため。
制服姿が似合っているのは低めの身長と、本人の顔立ちが少々幼さを残しているからだろう。子供っぽい仕草と愛嬌のある笑みは10代前半に見紛うほどだ。
つまり、伽々里さんは合法ロリ――

「何か失礼なこと考えてません?」

光を失った伽々里さんの目と、視線が交わる。
思わずたじろぎそうになる圧を感じながらも、俺は勢いよく首を横に振る。

「いやいや滅相もない」

「んんー……ならいいんですけど」

俺の弁解に気のせいだったのかと、伽々里さんは首を捻りつつもスクリーンに視線を戻した。
俺はひっそりと息をつく。勘が鋭すぎやしないだろうか。
そんな一幕を挟みつつ、地祇さんが厳かに口を開いた。
『よく集まってくれた。手短に用件を伝えるとしよう。昨夜、京介が捕らえた男に関してだ。あの男は『皓王会はくおうかい』と名乗る組織と関わりがあることが発覚した』

「『皓王会はくおうかい』ってなんですかー?」

『非合法組織の一つだ。組織を率いているのは皓月千こうげつせんという男のようだが、それ以外の詳細は不明。また、現場の調査をしたところ、精神に干渉する成分……以前出回っていた異能を増強させる薬物に含まれていたものが検出された』

「……つまり、その『皓王会はくおうかい』が新しい薬物を作っている、ということですか?」

地祇さんの言葉を引き継いだ伽々里さんに、静かに頷いて見せる。
『今後、『皓王会はくおうかい』の動向にも警戒しつつ、調査を行う方針だ。既に信頼できる協力者へ依頼している。週末に調査結果を記した資料の偽造品を京介と有栖川ありすがわで受け取りに行ってもらう』

有栖川ありすがわが言ってた仕事ってこれのことですか」

『話が早いな。偽資料なのは釣りの目的もある。二人ならば後れを取ることはないだろうが、じゅうぶんに警戒して欲しい』
自分たちの情報が記されているとなれば邪魔が入る可能性もある。そこを撃退し、逆に情報を掴む。囮作戦ということだ。
囮に学生を使うのはどうかと思われるかもしれないが、俺も有栖川ありすがわも異能者の中では相当に強い。同格の異能者……『異極者ハイエンド』なんかが出張ってこない限りは大丈夫だろう。

「彼らの……『皓王会はくおうかい』の目的は一体なんでしょうか。優秀な異能者の確保、運営資金集め……こっちの戦力を削ぐことも可能性としては考えられますが、全部憶測の域を出ません」

伽々里さんが顎に指をあてながら言う。
結局のところ本人たちの口から吐かせるのが一番手っ取り早いと思う。地道な調査も大事なのはわかるが、一つの事件ばかりに時間を割いてもいられない。
異能者絡みの事件は毎日のように起こる。時間も人員も有限だ。
『連絡事項としては以上だが、質問は?』
地祇さんの確認に全員で顔を見合わせる。
『では、今日はこれで――っ』
地祇さんは何かを言いかけ、その寸前で弾かれたかのように後ろへ飛びのいた。何かと『保管室』にいる全員がスクリーンを注視する。
伽々里さんが
「あっ!」
と声を上げて、ある一点を指さした。
そこにいたのは、小さな蜘蛛。短い脚をせわしなく動かしながら、地祇さんのデスク上を歩き回っていた。

「もう……尊さーん。ちっちゃい蜘蛛に驚かないで下さいよー。それでも『異極者ハイエンド』ですかー?」

『……仕方ないだろう、苦手なんだ』
困ったように地祇さんは頭を掻いて答える。その仕草は大きな体には似つかわしくない愛嬌と呼べるものがあった。
地祇さんは気を取り直すように咳払いをして、
『――とにかく、皆も気を付けるように』
短く言い切り、ぷつりと映像が途切れる。
静かになった部屋で最初に口を開いたのは、十束だった。

「先輩っ、有栖川ありすがわさんと仕事って聞いてないんですけど」

「俺も今日知ったんだが?」

「瑞葉も行きたかったですっ!」

「無茶言うな。仕事なんだから諦めてくれ」

どーどー、と猛獣を宥めるような気分で接していると、静かに椅子が引かれる音がした。
見れば、有栖川ありすがわが文庫本を鞄にしまって帰る準備をしている。思い出したように時間を確認すれば、短針が六を過ぎる頃合いだった。

「それでは、私はお先に失礼します」

「あっ、あーちゃんお疲れ様ですーっ!」

返事をしたのは伽々里さんだけで、俺と十束は会釈だけで済ませる。去り際に向けられた冷ややかな視線は、俺への抗議だろう。存在が邪魔だったのかもしれない。
有栖川ありすがわは止まることなく部屋を出ていった。

「……瑞葉、怒らせちゃったんですかね」

「気にしなくていいと思うけどな。有栖川ありすがわの不機嫌なんて今に始まったことじゃないし」

「京ちゃん……それ、あーちゃんに言わないでくださいよ?」

「言いませんって。まだ死にたくないので」

「……あーちゃんも浮かばれないなぁ」

苦笑交じりに伽々里さんが呟いた言葉の意味は分からない。直接言及してこないということは、そこまで重要ではないはずだ。
そう結論付けて、俺も帰宅の準備を進める。
「途中まで一緒に帰りましょう!」
と誘ってきた十束と共に、美桜みおを待たせないようにと帰路につくのだった。

陽が落ちて暗くなりつつある空模様。マンション前の道には買い物帰りの主婦や帰宅途中の学生の姿が見えている。
マンション内を通って、家の前の通路を軽く見渡した。朝と変化はないことに安心しつつ家の扉を鍵で開けて中へ。

「ただいまー」

玄関を潜って美桜みおに声をかけると、すぐに足音が近づいてくる。廊下とリビングを遮る扉が勢いよく開かれ、部屋着にエプロン姿の美桜みおが出迎えた。

「おかえりー!ご飯もうすぐ出来るからねー」

「おう」

「今日はお兄が好きな生姜焼きだよ」

兄に理解のある妹で助かる。荷物を置き、部屋着に着替えてリビングへ。食欲をそそる香りに耐えられなかった腹の虫が鳴り、気づいた美桜みおに笑われた。

「そんなにお腹空いてたの?」

「こんなに美味しそうな料理が並んでたら嫌でも腹は空くって」

「嬉しいなあ」

美桜みおは照れているのか、
「えへへ」
と頬を掻く。うん、可愛い。
でも、嬉しいのはこっちだよ。
帰る家があって、大切な家族がいて、温かい食事があって。これ以上、何を望むというのか。
奇跡のようなバランスの上に成り立っている日常。
その尊さは失わなければわからないもので。
一度、失ったもので。

「……どうしたの?不細工な顔して」

「普通に傷つくからオブラートに包んで??」

「ごめんごめん」

てへ、と赤い舌を出して美桜みおはおどけてみせる。美桜みおに悟られるくらい顔に出ていたのだろうか。
大丈夫。今の俺は昔と違って力がある。
必ず、俺が美桜みおを守るんだ。

「そういえば、お昼にアリサさんに呼び出されたって本当?」

「中等部まで話し広がってんの?」

「うん。だって、アリサさんは有名人だよ?成績優秀で綺麗だし、生徒会の副会長さんだし、異能だって凄いから中等部にもファンが多いんだよ?」

有栖川ありすがわが人気なのは知っていたけど、噂話がそこまで広がっているなら……本当に学校では関わりたくないな。変なやっかみを生みそうだ。
でも、有栖川ありすがわって結構ポンコツだと思うのは俺だけか?方向音痴だし、微妙に感性がずれてるし、何考えてるかわからないし。学校と外でキャラを分けているんだろうな。否定する気はないけど、できるなら俺といるときも優秀なままでいて欲しい。

「しかも相手がお兄って聞いたから。何か悪いことでもしたなら謝った方がいいよ?」

どうして俺が悪事を働いたことが前提なのか。今日に限っては間違いではないものの、素直に認めるのは負けた気がする。

「昼を一緒に食ってただけだよ。今日の弁当も美味しかった」

「ならよかった。けど……アリサさんがお兄をランチに誘ったの?」

「誘われたというか強制連行されたというか」

「それはいくら何でも言い方が酷すぎるよ」

でも事実ではある。

「まあ終わったことだし、早く食べないか?」

「そうだね。今日もお疲れ様」

美桜みおもな。……そういえば、アレも異常はないか?」

「うん。安定してるよ」

「それならいいけど……何かあったらすぐ言ってくれ。先生のとこに突撃するから」

「心配症だなぁ」

困ったように頬を掻き、緩く笑む。
とはいえ、心配しすぎて損をすることはない。美桜みおは俺のせいで少しばかり特殊な事情を抱えている。
美桜みおが言うのであれば大丈夫なのだろうけれど、心配なものは心配だ。
温かな湯気が漂う味噌汁を啜り、滋味の溢れる味に思わず感嘆の息が漏れる。

「相変わらず美味いな……」

「そうでしょ。おかわりあるからいっぱい食べてねー?」

それから流れるように美桜みお特製の生姜焼きで舌鼓を打ちながら、ふっくらと炊き上がったご飯を口へ運んだ。


人が寝静まった深夜。
漣立つ海が一望できる東京湾。埋め立てられた陸地に並ぶ巨大なコンテナの迷路。夜風が隙間を吹き抜け、漂う空気に混じる血と暴力の気配を遠くへ運ぶ。
響く三点バーストで放たれた銃声。
続けざまに応戦する拳銃の散発的な銃声がリズミカルに奏でられた。

「おい、こっちだ!」

「構成員を捕らえろッ?最悪殺しても構わん?」

男たちの怒号が夜を裂き、再度マズルフラッシュが暗がりに閃く。
東京湾で銃撃戦を繰り広げるのは、日本の特殊部隊と『皓王会はくおうかい』構成員の二勢力。
両者の戦力はほぼ互角。どちらにも死者や怪我人が出ているが、それが退けない理由になっていた。

「くそっ、増援はまだかっ?」

「今『異特いとく』が向かっているらしい!それまで持ち堪えろ!」

隊長格の男が部下を鼓舞し、応と声を上げた部下。

「――っぁあああああっ??」

「っ?」

その、頭を。
暗闇から溶けだした人の手が掴んだ。
ギチギチと頭蓋骨に指がめり込み、軋む嫌な音が小さいながらも良く耳に届く。呆然としながら彼を見つめる仲間は現実を直視することを拒絶しているようにも思える。
血走った眼とぽっかりと空いた口で無言の助けを求める彼に、誰一人として手を伸ばせない。
そのまま、頭蓋をスナック菓子でも粉砕するような気軽さで握り潰した。
ぐちゅ、と割れ目から紅い脳漿が飛び散り、髪先を伝って地面へ滴り落ちる。
あぶくを吹いて倒れ、闇から死を冒涜するかのように背を踏みつける大柄な男が現れた。

「……ったく、こんな雑魚相手に俺様を呼びやがって。クソつまんねぇ」

男は耳穴に小指を突っ込みながら悪態をつき、今しがた殺した男の頭に唾を吐く。道端の石ころでも蹴飛ばしたかのような気軽さだ。

「なっ……?お前、『白虎』――」

「お?俺様のことを知ってるやつがいたか」

隊長が呟いたのは、部下を殺した男の異名。全世界で指名手配されている異能犯罪者であり、本人の異能強度は驚異のレベルⅨを誇る。
異極者ハイエンド』一歩手前……それは、殆どの生物にとって圧倒的な格上の強者。
名を林道泰我――通称『白虎』と恐れられる異能者が、彼らを襲っていた男の正体だった。
一同の脳裏を絶望が塗り潰す。ここで死ぬ、誰もが自分の役割や任務を差し置いて確信してしまっていた。既知の怪物を前にして本能的な怯えが足を竦ませ、一歩退くことすら許されない。
そもそも、一歩も百歩もレベルⅨ『白虎』からすれば大差なくキルゾールの範囲内だ。

「めんどくせぇな。皆殺しでいいって話だが、それじゃあ趣きがねぇとおもわねぇか?」

「…………っ」

「だんまりかよ。なら、ここは一つ懸命に生きてきたお前たちに免じてゲームをするか。ルールは単純――俺に捕まったら殺す。わかりやすくて良いだろ?」

ふざけたことを。誰もが思うも、口に出せた人はいない。

「10秒待ってやる。精々逃げ回って俺を楽しませろッ?」

口角を最大限に上げて嗤う泰我の合図で、隊員たちが一斉に散らばった。少しでも人数を分散すれば、その分の時間くらいは稼げるという無言で交わした作戦。
犠牲が出るのは免れない。自分が真っ先に殺される可能性があるとしても、明日の可能性へ繋ぐため自らの命を捧げる。
高鳴る心臓の鼓動。手に滲む汗、首筋がひりつく感覚。背を走る怖気を深い息遣いで遠ざけて、自嘲気味に笑って見せた。
そうでもしなければ、折れてしまいそうだから。

「さぁて、やるか」

十を数えた男が獰猛に一歩踏み出して。
虎の狩りが始まった。


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